大阪と共に歩んできた、とり粂の道
1500年頃
上町台地の先端部が「大阪」と呼ばれるようになる。
1550年
日本全国の物流が集中する経済・商業の中心地となり、「天下の台所」と呼ばれて繁栄する。
1837年
江戸では「うなぎブーム」でたくさんのうなぎ屋が増えたそうです。
1853年
ペリー 浦賀に来航
浦賀奉行所には、パンやステーキが贈られたそうです。
1868年(明治元年)
開国とともに綿花など外国の安い商品が流入し、農村部は貧しい時期が続きました。
1894~95年
日清戦争
横浜、東京で牛鍋が流行し始める。初期の牛肉は質が低く獣臭さが目立つため、角切り肉を味噌仕立ての味付けで煮る形だったそうです。
1912年(大正元年)
明治天皇崩御、大正天皇践祚。
大正と改元。
1914~18年
第一次世界大戦
1928年
関東大震災
1926年(昭和元年)
大正天皇崩御。裕仁親王践祚。
昭和と改元。
1939~45年
第二次世界大戦
1953年
テレビ放送開始
1964年
東京オリンピック開催
とり粂の料理処でも、食事をされながら、たくさんのお客様がテレビで競技を観戦されたそうです。
1970年
日本万国博覧会
日本中から職人と観光客が押し寄せ、
大阪はたいへんな賑わいでした。
1995年
阪神・淡路大震災
断層の関係で、大阪府内でも茨木は揺れが大きかったため、店舗でも商店街でも大きな被害がありました。
1998年
明石海峡大橋が開通
大橋のおかげで、明石から最高のたまねぎがすぐに入荷するようになりました。
2001年
ユニバーサル・スタジオ・ジャパンがオープン
2007年
大阪世界陸上開催
2008年
大阪名物くいだおれ閉店
60年間がんばってきた「くいだおれ太郎」お疲れ様でした。
- 1500年代
- 1600年代
- 1700年代
- 1800年代
- 1900年代
- 2000年代
1583年
豊臣秀吉が大阪城を築く。
1778年
木下粂太郎 大阪に誕生
武士の家系に生まれる。
後の茨木市に居を移し、鶏や野鳥を使ったとり粂の原型となる食事処を開きました。
1838年
初代 木下力松
当時としては珍しい様々な趣向を凝らした料理を提供し、食事処は非常に繁盛したそうです。
1868年
大阪 茨木に「とり粂」開店
「あそこに行けば美味い鳥が食べられる」と、近隣の住人は「鳥屋の粂」と呼び親しまれました。初代が30歳になる年に、「とり粂」として看板をあげました。
新京阪電車(現在の阪急電鉄)が、大阪から京都大宮を繋ぐ路線工事が始まりました。
建設関係者に重宝され連日昼夜満席であったと先代から聞いております。
1902年
当時流行となりつつあった すき焼きと、本格的な割烹の提供を始めました。
1913年
二代目 木下清吉
戦中の統制経済、配給制度と、非常に厳しい時代でした。日々奔走して独自の取引を行い、出来る限りの商品の提供をして参りました。
戦中は、茨木商店街にも軍靴の音が響きました。
1940年
三代目 木下武一
戦後の復興、自由経済へと混乱の時代の中、茨木の地を離れずに暖簾を守って参りました。
在来種の小柄な但馬牛と輸入された牛が掛け合わされ、神戸牛の元となる黒毛和牛が登場しました。
1962年
四代目 木下 淳
スーパーマーケット、コンビニエンスストアが登場し、商いは新しい時代に代わって参りました。安いだけではなく、本当に美味しい・安全な食材をお客様にお届けしたいと、商品に一段とみがきをかけました。
1968年
茨木市阪急駅も、裏手はまだ手付かずの野原が広がっていました。
1973年
東京オリンピック・大阪万博と続き、時代の活力と共に茨木の商店街も急激に発展していきました。
1983年
神戸肉流通推進協議会 発足
生産者が長い年月、努力を重ねてきた神戸ビーフが高い評価を受けつつある中、「あの美味しい神戸の牛肉はどこで買えるのか?」という消費者の皆様の声がきっかけとなり、神戸ビーフのブランドを管理/供給するために協議会が発足しました。
2000年
五代目 木下 博
より多くの方々に本物の但馬牛の美味しさを味わっていただくため、ホームページの開設・インターネットによる商品販売計画など、様々に事業を展開を始めました。
2002年
とり粂 企業サイト オープン
インターネットを使い、多くの方々に美味しい但馬牛をご提供する窓口を開きました。
2013年
企業サイト 全面リニューアル
Facebookページスタート
様々な情報を加え、より魅力的なサイトへと生まれ変わりました。